プロジェクトXは終わらない  - 未来を作る若者たちへ -

 

未来を作りあげるのは君たちだ

 

 挑戦の気持ちがなくなり、しかたないと考えるようになった時、君は若さを失う。若者たちよ、未来を人にゆだねるな。未来はやって来るのではない。君たちの意思で、君たちの望む未来を作り出す。やがて数十年後、自分たちが作り出した時代が歴史で語られる日が来る。そのために学び、何ができるのか考え、行動しよう。やがて君たちの夢はかたちになる。人生は挑戦。未来を作るのは君たちだ。

 

 1950年~1980年がコンピュータの時代と呼ばれた後に1981年~2000年の情報ネットワークの時代を経て、21世紀になった。とかくアメリカ中心で語られるインターネットだが、その発展において日本が大きな役割を果たしてきたことはあまり知られていない。私が働いた富士通にも、情報ネットワークの未来を夢見て20世紀最後の20年、挑戦を続けた仲間たちがいた。

 

1. 日本コンピュータ界の伝説の人、池田敏雄の次の時代を作りたい

 

 1946年、世界初の真空管電子計算機ENIACが開発された。その年、業界最低と呼ばれていた富士通に入社した風変わりな男がいた。彼こそが、無謀な挑戦と言われた国産コンピュータの開発に挑んだ日本コンピュータ界伝説的の人、池田敏雄である。池田の国産初のコンピュータ、世界最高速のコンピュータへの挑戦の歴史はNHKのプロジェクトXでも紹介された。池田敏雄さんたちはコンピュータの時代と呼ばれる30年間(1950~1980年)を作った。そしてそれまでは電話機会社だった富士通の寿命を30年延ばした。彼がいなければ、私が入社した1981年には富士通はなかったかも知れない。企業の寿命を延ばすのは挑戦を続ける社員のエネルギーである。

 

 ここで語る物語は、情報ネットワークの時代と呼ばれる20年間(1981年~2000年)を作った人たちのドラマである。ひとりの男がいた(私のことですが、ちょっとプロジェクトX風に)。池田敏雄が生み育てた大型コンピュータFACOMを理論物理学の計算に使うユーザであり、半導体の基礎科学である物性理論の研究をしている一風変わった男、中山幹夫である。

 

 大型コンピュータを使って物性理論の研究をしている時に国産初の本格的パーソナルコンピュータのPC8001が1979年にNECから発売され、個人でコンピュータを持てることに感動した。大学ではFORTRANという高級プログラム言語を使っていたが、パソコン用のBASIC言語でもかなりのことができた。自宅でプログラム開発にはまり、ゲームソフト、英和辞書などを趣味で作っていた。試しに物性理論のシミュレーションにも使ってみると、大型コンピュータより遥かに遅いけど結構使える。

 

 物理科学への理解力と応用力には自信があったが、新しい理論を作ることは自分にとって難しい気がしてきた。アインシュタインのようなすごい物理学者になるのは難しいだろうなと感じ始めた頃、当時なかったパソコン教室のアイデアを思いついた。開校のための宣伝ビラまで作ったが数十台のパソコンを買うお金を用意することができなかった。プログラマになろうかとも考えたが、漠然とプログラムを専門にする気にはなれなかった。プログラム開発でもハード設計でも、何か目的が欲しかった。

 

 やがて目の前にある孤独なパソコンに何か物足りなさを感じ始めるようになった。その時、このパソコンをつなぐネットワークが存在しないことに気がついた。当時はコンピュータを電話線につないでデータ通信するだけで法律違反になってしまう時代だった。実際にパソコンを電話線につないで逮捕された人もいた。当時のネットワークは自由にコンピュータが接続できる環境ではなかったのだ。身近にあるパソコンがネットワークでつながったら無限の可能性があると感じて、コンピュータとネットワークを融合した情報ネットワークを夢見て、富士通の通信部門に入社した。

 

2. 情報ネットワークの時代が始まる

 

 テレビCMにもほとんど登場しない、一般の人には無名の会社。それが当時の富士通だった。富士通には大きく3つの部門があった。コンピュータ部門、半導体部門、通信部門である。そんな富士通に「富士通の大型コンピュータとNECのパソコンに感動した(NECと言ってしまった!当時富士通のパソコンはない)。だけどコンピュータや半導体やプログラマではなくて、ぜひ通信をやりたい」と入社面接で話した。もちろん通信の知識は何もない。でもこれからの新しいことなのでハンディにはならないはずだと思っていた。しかしその時は、その目的のために、その後、自分が通信用LSI(半導体)を開発し、ハードウェア設計をし、通信装置内蔵のCPUの周辺回路設計やプログラム開発をすることになるとは思ってもいなかった。本当に何も知識がなかった。でも、だからこそ突っ走れたのかもしれない。

 

 当時はコンピュータ開発やプログラマが人気職種であった時代である。物性理論を勉強してきたのに半導体部門を希望しない変な男。でも、なぜか内定をもらった。すごくうれしかった。池田敏雄も変な人だったそうだ。少し変なヤツだけど面白そうじゃないか、試させてあげようと思われたのかもしれないし、変人に何かを期待するような体質が会社に残っていたからかもしれない。私を採用してくれたのは富士通の懐の広さだと思っている。当時はほとんど注目されていない通信部門をあえて希望し、そこに未来を賭けて情報ネットワークに挑戦する!なんてかっこいいんだろう!と自分で自分に感じていた。

 

 1981年春、期待に胸をふくらませ富士通に入社した。もちろん新入社員のほとんどがSE、プログラマ、コンピュータ開発、そして半導体研究を希望して配属されていた。通信部門は、希望する人も配属される人もそんなにいなかったのである。そして希望通りに通信部門に配属された。電話の電子交換機を作っている事業部の電話機課に配属された。そこは黒電話も作っていた。でもそここそが私にとっての原点だった。そういえば池田敏雄も最初は電話機部門だった。

 

 上司は幸いにも一方的に業務を決めたりしなかった。富士通には当時からチャレンジ精神の風土があったし、まずはやりたいことを聞いてくれた。そこで、私はコンピュータを活用した情報通信をやりたいと答えた。初めての仕事は、音声、データ、コンピュータ通信を統合する情報ネットワークを日本独自方式で開発するNTT横須賀通信研究所との共同研究だった。そこで複合情報端末を開発するプロジェクトに参加して3年後には統合ディジタルネットワーク(INS)が完成し、1984年の筑波万博にも展示した。三鷹地区では世界に先駆けての情報ネットワークの実用トライアルが行われた。筑波万博や三鷹でのINSトライアルは、世間では『いったい(Ittai)なにを(Nanio)するのか(Surunoka)』の略じゃないのなんて言われたりしていたが、世界最高水準の技術を持つデジタル統合網を日本独自規格で実現したプロジェクトに参加できた喜びは最高だった。

 

 成功するまでの道のりは絶壁の崖ばかりだった。通信プロトコルも回路設計も基本から知らないことばかり。家に帰っても勉強した。プログラム言語であるアセンブラも必死で覚えた。経営が厳しい状態だったので会社もあまりお金も人もかけられない。驚くほど小人数のプロジェクトであった。当時、情報通信において世界を舞台に熾烈な競争をしていたのがNECと富士通であったが、NTTとの打合せでもNECは富士通の何倍もの社員が来ていた。でも幸い先輩は親切だったし家族的な雰囲気だったので、きっとうまくいくよといった不思議な安心感があった。風の谷のナウシカで落ちそうな飛行艇に乗って心配そうにしている人たちにナウシカが『大丈夫!』と声をかけられるシーンがあったけど、そんな安心感である。それにみんな変わっていて個性的な人ばかりだった。やっぱり類は友を呼ぶのだろか。

 

3. 世界初のISDNを実現

 

 今ではISDNという言葉を知らない人はほとんどいない。というよりすでに時代遅れになっている。しかし20年以上も前に統合サービスディジタル網のISDNの開発がおこなわれたことを知っている人は少ない。私たちは日本独自規格のINSを開発していた時期、同時に、世界に通用するISDNの開発を富士通単独で進めていた。時代は情報ネットワークの黎明期。コンピュータとネットワークを融合させる世界標準が国際会議で審議され始めたばかりであった。開発していたのは情報交換機FETEX150とISDN情報通信装置である。私が担当したのはISDNインタフェースLSIとISDN情報通信装置の開発だった。

 

世界初のISDNインタフェースLSI
世界初のISDNインタフェースLSI

 

 大変だったのはまだ世界のどこにも無いものを作る苦労だ。何をどう作ったらいいのかすら分からない。教科書などはどこにもない。すべてが国際会議で審議中の英文ドラフトの原文、汚い手書きの英語があちこちに書き込まれている。技術用語を理解することは至難の業だし、決まっていないことがあまりにも多くて、こんなことで作れるのかと何度も挫折しそうになった。部品すらないのでそれも作る。新しいことなのでアイデアがたくさん出てきて、開発の途中で多くの発明をすることができた。それらを特許出願する一方で、だれも作ったことのないISDN通信のコアになるLSIを世界初で作った。回路設計したのは私と同僚の佐野氏のわずか2人。膨大な回路図面、動作確認のためのシミュレーションを何度も行い、その結果の0と1の羅列を何時間もにらみつけてチェックする。うまく動作していない所が見つかるたびにLSI図面のどこが悪いのかを調べる。当時はディスプレイでの確認ができなかったので、プリンターから打ち出されるLSI図面とシミュレーション結果は大きなダンボールの山となり、運ぶことで力を鍛えることができるほどだった。柔道部だったことがこんなところで役に立った。そして、世界初のISDNインタフェースLSIが完成した。

 

世界初のISDN情報通信装置はシンガポールで運用開始

世界初のISDN情報通信装置はシンガポールで運用開始世界初のISDN情報通信装置はシンガポールで運用開始世界初のISDN情報通信装置はシンガポールで運用開始

 

 予算も人も少ないので、一人一人が結構たくさんのことをしなければいけない。私たちはLSIを作りながら、ISDN情報通信装置の設計と制御ソフトの開発もした。一見電話機のように見えるが、音声・FAX・コンピュータ通信を同時に実現する装置である。後ろにあるコンピュータもこの装置につながっている。回路設計のミスを直しながら、もりそばの配線で修正した末に、やっと動く形のプロトタイプが実現した。その後、小型化のために周辺回路のLSI化と回路の再設計をして、同時に複雑な通信プロトコルを実現するソフトウェアの開発も進める。少ない人数で協力しながらテスト用のツールやテストプログラムも開発し、単体テスト、結合テスト、システムテストと進んでいった。そして、ついに1985年に世界初のISDN情報通信装置を富士通単独で実現した。でもなぜか最初にISDNシステムを導入したのは日本ではなく、情報化に意欲的だったシンガポールだった。シンガポールに情報通信複合交換機FETEX150と自分が開発したISDN情報通信装置を納入して、世界初の情報ネットワークの運用が始まった。自分たちの情熱が形になっていくことの喜びは最高だった。挑戦はいい意味で癖になる。

 

Asia Telecom'85での富士通の展示ブース       仲間とプロジェクトの成功を祝う

Asia Telecom'85での富士通の展示ブース仲間とプロジェクトの成功を祝う

 

4. 広帯域情報ネットワークの実現

 

 コンピュータ部門の利益は1980年代から1990年代かけて衰退を始め危機的な状態になっていた。コンピュータの小型化・低価格化の影響で大型コンピュータの売上は激減していた。パソコンも価格競争が厳しくてちっとも黒字にならない。そこで、ビジネス収益の期待は通信部門に向けられた。池田敏雄が会社の寿命を30年延ばしたように、私たちは会社の寿命をさらに20年伸ばしたと確信している。ただ日本では情報ネットワークはその目的も含めてあまり注目されていなかった。同窓会で、何しているのと聞かれて情報通信と答えても『電話機?』と言われた。挑戦者はいつも孤独である。

 

情報通信システムを納入したアラブ首長国連邦(UAE) GITEC'89

情報通信システムを納入したアラブ首長国連邦(UAE) GITEC'89情報通信システムを納入したアラブ首長国連邦(UAE) GITEC'89

 

 富士通の通信部門はISDNの成功を皮切りに、さらに次世代情報ネットワークの開発に取り組んだ。大変だったけど仕事は楽しかった。もろんうまくいくことばかりではない。多くのトラブルに見舞われたりもしたが、粘り強さとチーム力で乗り切り開発を成功させ、富士通の情報ネットワークは、米国からアラブ諸国まで世界各国に次々と納入された。

 

UAEの都市ドバイ     職場までに道のり     同僚たちとUAEテレコムの社員

UAEの都市ドバイ暑いので仕事場までのんびり歩く同僚たちとUAEテレコムの社員

 

 やがて次世代情報通信の広帯域情報ネットワークの開発が始まったが、これは自分の部署の仕事ではなかった。でもおもしろそうなことには手を出さないでいられない性格なので、部署を乗り越えてのプロジェクト参加を希望して認められた。やってできないことはないと信じていたし、チャレンジ精神は人一倍強かったのである。この頃から仕事のやり方に大きな変化が見えてきた。プロジェクトが巨大化し、今まで考えられないほどの莫大な予算と人がつく。まさに社運を賭けての開発だった。私が責任者として担当するサブプロジェクトだけでも数億円もの予算がついた。でも一人一人は決して会社の歯車などではない。たくさんのサブプロジェクトが互いに連携して開発を進めるので、たった一つのサブプロジェクトが失敗するだけでプロジェクト全体が失敗してしまう。システムが大きいので一人一人の責務はすごく大きくなる。チーム力、組織力の戦いだった。メンバーの一人一人が組織を愛し、仕事を愛して全力を出すことなしには、成功はありえないのである。

 

 1992年、ついに世界初の広帯域情報ネットワークが完成した。その結果、富士通は広帯域情報ネットワークでも世界の情報ネットワーク市場を制覇。米国でもナイネックス、ベルサウス、USウェスト、サウスウェスタンベルなど全米大手通信各社の次世代情報通信システムの受注を独占した。かつて、社内のお荷物とさえもいわれていた通信部門はこの成功で莫大な利益を稼ぎ、利益の源泉・稼ぎどころとなった。コンピュータの小型化の影響で売上が激減していた大型コンピュータ部門や安売り競争で利益の上がらないパソコン部門などの赤字を補い、情報通信部門は会社を救った救世主となった。時代は確実に変わってきた。情報通信という言葉が次第に一般的になってきた。もう『電話のこと?』とは言われなくなった。

 

5. 米国の情報スーパーハイウェイ構想を支えたのは日本企業だ

 

 技術者はコミュニケーションが苦手だと思っている人がいるが、それは間違いだ。多くの仕事はチームで行う。だから仲間とのコニュニケーションが不可欠だ。国内外のビジネスミーティングで顧客の要求を聞くこと、提案も出すことも必要だ。いくら知識があって、どんなに技術者として優れていても、仲間や顧客とのコミュニケーション能力が低ければよい仕事はできない。

 

アメリテック社、イリノイベル社、ハンバーガー大学にて情報通信サービスとヒューマンインターフェースの提案
 サンフランシスコ 中央は同僚のラリボー氏ハンバーガー大学 中央が私、左が上司と同僚、他はマクドナルド幹部、右は上司の服部氏(現在金沢工業大学教授)
ハンバーガー大学ハンバーガー大学
   サンフランシスコ          ハンバーガー大学
中央は同僚のラリボー氏    中央が私、左が上司と同僚、他はマクドナルド幹部
右は上司の服部氏(現在は金沢工業大学教授)

 

 情報通信の発展のためにも話し合いが大切である。お互いの装置をつなぎ、情報を通信するためにはみんな勝手なやり方で作っていたらつながらない。標準化のために各社と話し合い、世界各国とも議論し合う。他社や他国は競争相手であるとともに、共に協力しあう仲間でもあるのだ。私は国内で標準化機関の電信電話技術委員会(TTC)メンバーとして国内各社と標準化を進め、国際標準化組織である国際電信電話諮問委員会(CCITT:現在のITU-T)に寄書を提出して審議に参加し、いくつかの提案は合意され国際標準になった。世界の人々と話し合って決める、すばらしく民主的で平和的なやり方ではないか。

 

ベルノーザン研究所での通信プロトコルの提案    国際標準化委員会での通信プロトコルの提案と審議

ベルノーザン研究所での通信プロトコルの提案と討議 カナダのトロント  シカゴのエンパイヤステートビル   国際標準化委員会での通信プロトコルの提案と審議 スイスのジュネーブ

カナダのトロント          シカゴ           スイスのジュネーブ

 

 次に取り組んだのは1993年から米国クリントン政権のもとでゴア副大統領が強力に推進した国家戦略、情報スーパーハイウェイ構想である。当時不況にあえぐ米国にとっても景気回復のための切り札であり、特に将来を見据えて教育に重点をおいていた。高度情報通信網を全米に整備し、教育機関、医療機関、企業、家庭のネットワーク化促進し、遠隔教育、遠隔医療などでの利用と、ビジネスでの活用を目指すものだった。広帯域情報ネットワークの成功に味をしめていた私は、情報スーパーハイウェイ構想にも参加したいと考えていた。マルチメディアシステムの遠隔教育がおもしろそうだったが、放送方式のNTSCも画像圧縮も何も知らなかったので技術をひたすら学んだ。でも、それだけでは遠隔教育で要求を満たことはできなかったので、考えて考え抜いてマルチメディアシステムの画像技術を発明し、それを米国に提案するように社内を説得した。この提案は米国にも認められ、情報スーパーハイウェイ構想に自分の発明でプロジェクトリーダとして参加できることになった。

 

 このプロジェクトには多額の予算が確保され、多くのプロジェクトチームメンバーを集めて、社運を賭けたプロジェクトが始まった。不安も多少はあったが、こんなすごいことにチャレンジできる喜びのほうがはるかに大きかった。何より難しいかったのが顧客対応だった。顧客の要求は当初よりさらに高くなり。その要求に応えるための提案書を作り、技術検討、度重なるビジネスミーティング、そして厳しい開発工程の中で、膨大な設計仕様書を作り、巨大なLSIを3種類も同時に開発した。試作装置を作ってみれば装置は加熱するわ、画像は乱れるわでちっともまともに動かない。まさにプロジェクトXそのものだった。光ファイバーのインターフェース回路に不良があるのか?LSIが悪いのか?内蔵しているCPUの制御ソフトに不具合があるのか?連日、夜遅い帰宅が続き、家にも帰れない日々が続いた。やっと一つのトラブルが解決したと思ったら、また新たなトラブルが見つかる。そんなことの連続だった。自分が発明し提案した開発だ。成功させてみせるという意気込みは強かった。失敗したら責任を取る覚悟はあったが、でも失敗は絶対ゆるされない。

 

 だからこそ成功した時の喜びは最高だった。この成果は米国から高い評価を得て、情報ハイウェイ構想の推進者であったゴア副大統領も自らセレモニーにおいて、このマルチメディアシステムを使用したのである。成功をプロジェクトの仲間たちとのおおいに喜び、そしてすばらしく感動した。米国の復活と発展を支えたのは日本なのだ。そしてアメリカは空前の好景気を迎えることになる。その後、私はテラビットルータなどの開発で責任者としてプロジェクトを推進したが、一方、仕事のやり方を変えるための業務改革にも取り組みはじめていた。

 

6. 時代はどこに向かうのか

 

 自分のいる日本という国の足元をあらためて見てみると、情報ネットワークによって米国経済が大きく再生を果たしたことと比べて、日本は対照的だった。情報ネットワークの時代の黎明期の1980年代には日本経済はバブルに踊って本業を忘れ、情報ネットワークの成熟期の1990年代にはバブル崩壊に右往左往しながら不景気に沈み続けていった。景気が良かったのはITシステムを海外に売っていた富士通のような企業ばかりだった。日本は高い科学技術を持ちながらも、情報通信の開発成果は主に海外で活用され、自国での活用は非常に遅れていた。2000年までの日本はITにあまり意欲的ではなかったのである。

 

 システムを提供する側として、自分たちが作り上げたものが自国であまり活用されていないなんて、こんな腹立たしいことはない。日本で森喜朗総理大臣が、米国の情報ハイウェイ構想の日本版であるeジャパン構想を国家戦略としてを示したのが約10年遅れの2000年、IT基本法(高度情報通信ネットワーク社会形成基本法)がやっと成立したのが2001年である。森総理がIT化のアピールとしてパソコンの練習をする映像がテレビで流れた時、これが日本なのかと衝撃と落胆を感じた。でもこれが当時の日本の現実であった。諸外国がITを利用して発展したことと対比して、日本のITを利用する人たちの意識は、個人でも企業でもあまりに低すぎた。

 

 1950年~1980年は『コンピュータの時代』、1981年~2000年の『情報ネットワークの時代』だった。すでにコンピュータとネットワークは密接に一体化し、ネットワークシステムに多くのコンピュータが組み込まれ、身近なコンピュータの中にはモデムやLANなどのネットワーク装置が内蔵されている。21世紀はパソコンとネットを当たり前の道具としてそれを情報サービスで活用する『情報サービスの時代』だと直感し、2001年から次世代を担う若者の教育に自分の力を生かす仕事をすることを決心した。

 

7. 新しい出発

 

 これからはユーザを重視した人間に優しい時代になって欲しい、すべての人たちがこのIT環境を生活と社会、ビジネスに生かして人生を豊かにし、時代の主役になって欲しいと考え、私は今、神田外語大学で教える道を歩んでいる。私が富士通を去った以降、富士通の社員たち後輩たちは情報サービスの時代の黎明期で戦っている。ようやく2001年以降、ビジネスや教育などさまざまな場でITは利用されるようになってきた。それでも多くの業界は厳しい状況にあるが、時代の節目とはいつでもそういうものだ。どんな時代にするのか、会社の寿命をさらにあと数十年延ばすことができるのか、それを決めるのは若い社員たちの挑戦にかかっている。仕事に情熱を傾け、仲間と組織を愛することができれば、すぐそばに君たちを支えるチームと仲間たちがいることに気づくはずだ。

 

 社会の変化に目をつぶり新しいことを拒み、今のままでも何とかなると思っている人たちがいる。彼らは自分の頭で考えない人たちだ。問題の本質はどこにあるのか?本当の敵は外にいるのではない、本当の敵は中にいる。企業経営がうまくいかない理由のほとんどは外的な要因ではなくて組織自身が抱えている内的要因である。外国のせいでも政治家のせいでもない。企業は潰されるのではなく自滅して潰れる。そして一番の敵は自分自身、自分の敵は自分だ。だからこそ成長のためには自分自身との戦いが必要である。挑戦して自分の可能性を伸ばすのか、現状に甘んじて後退するのか。もし今の日本に絶望している人がいるなら、そんな彼に言いたい、「絶望的なのは社会ではなく、未来に夢を持てない君自身なのだ」。人生とは時には戦いだ。その時は何かを変えなければいけない時だ。戦いから逃げないで立ち向かっていけば、その先にはきっと光がある。

 

 インターネットの時代が来たとよくいわれるけれど、未来は来たのではない、作り上げたのだ。富士通の仲間たち、そして日本中、世界中の多くの人々の努力によって作り上げられた夢だったのだ。『夢をかたちに』は私が入社した1981年と同じ年に社長に就任した山本卓眞氏が1985年の富士通創立50周年の時に制定したスローガンである。山本社長は1985年のシンガポールのAsia Telecom'85成功の時の飲み会で入社4年目の私の隣にいてビールをついでくれた気さくな人だった。『夢をかたちに』には変革に挑戦し続ける姿勢と、自分たちが望む未来の『夢をかたちに』するという主体的な意味を感じる。今でもこの言葉が大好きだ。

 

 

プロジェクトXは終わらない。

 

 若者たちよ、未来を人にゆだねるな。時代はやって来るのではない。君たちの意思で欲しい未来を作りあげるもの。数十年後、自分たちが作り出した時代が歴史で語られる。そのために学び、見極め、自分は何ができるのか考えよう。

 

 未来を作り出すための君たち若者の新しい挑戦が、これから始まろうとしている。人生は挑戦。未来を作るのは君たちだ。やがて君たちの夢はかたちになる。

 

                            2003.8